top of page

The Zone of Interest (2023)を観て

  • Writer: Nebula
    Nebula
  • Apr 13
  • 8 min read

Updated: Apr 29

“Wenn ich wollte, würde mein Mann deine Asche sofort über den Feldern von Babice verstreuen.”


はじめに

少し前に観た映画、The Zone of Interest (2023) (邦題:関心領域)についての記事です。

この記事は2025年3月25日にNoteに投稿した内容を一部改変したものになります。



あらすじ

ネタバレ注意です。

序盤〜中盤の流れのみ書いています。

青い空の下、皆が笑顔を浮かべ、子どもたちは楽しそうな声を上げるなど、アウシュビッツ強制収容所の所長を務めるルドルフ・ヘスとその妻、ヘドウィグら家族は穏やかな日々を送っている。そして、窓から見える壁の向こうでは、大きな建物が黒い煙を上げている。1945年、一家が幸せに暮らしていたのは、強制収容所とは壁一枚で隔たれた屋敷だった。

https://press.moviewalker.jp/mv85290/



感想

単純に表現すれば、作中で描かれるストーリーは「平穏な自宅/家族を離れ、単身赴任に赴く夫の日常」と一文にまとめられる。

しかしながら本作は耳元に、そして頭の中にそれ以上のモノを囁いてくる。


この映画は下手なホラーより断然怖い。

怖いというより「恐ろしい」。

映画自体の発想はもちろんの事、異常な日常、そして画角やサウンドまで全て考え尽くされていて、日常の異常さ・不快さがかなり強く描かれている。


タイトルだけ見て、私はそもそも「関心領域」とは何なのか?という疑問が浮かんだ。これはまさに作中のほとんどの時間で描かれている場所、すなわちアウシュビッツ強制収容所で働いているナチスの人々専用の居住区域の事である。当然、本作での「関心領域」という言葉は単純な地図のピン以上の意味を持っている。

参考:「関心領域」は英語だと “Zone of Interest”や “Interest Zone”、ドイツ語では “Interessengebiet” と呼ばれている。


Karte des Interessengebietes des Konzentrationslagers Auschwitz|収容所の外周を囲っている赤点線の中が“関心領域”。
Karte des Interessengebietes des Konzentrationslagers Auschwitz|収容所の外周を囲っている赤点線の中が“関心領域”。

アウシュビッツ強制収容所と聞いて、私がまず思い浮かべるのはガス室だ。しかしながら、2時間近くある本作では強制収容の様子や死体、更には銃が撃たれる様子まで、「中」の彼らを取り巻く恐怖を観客が見る事はない。ただ「聞こえてくる」のだ。

そして本作では「聞こえてくる」という表現が最も的確な表現だろう。作中に登場する人物のうち、関心領域に住み続けている人々は銃声、怒号、悲鳴を間違いなく耳にしている。であるにも関わらず、彼女らはそれを気にしないのだ。

意図的に無視している訳でもない。私たちが家の外から聞こえる自動車のエンジン音を気に留めないように。私たちが会話中に重なり合う食器の音を意識しないように。本当に単純に「気にしない」のだ。その意味において収容所の中は彼女らの関心の外にある。


作中、ヘートヴィヒ(妻)の母親が家を訪れる。最初こそ家の良さを感じていたものの、次の日にはヘートヴィヒにすら言葉をかけずこの地を去る事になる。

直接的に会話・文字等で示される事はないが、明らかに母は「中」から聞こえてくる音に悩まされたようである。やはり普通の人間にとって、この地は異質な環境なのである。

最序盤から感じていた異常性。なぜこんな悲鳴と銃声に溢れた環境で彼らは寝られていたのか?当然答えは彼らの無関心である。そしてこれは異常である。音でも灰でも川の遺骨でもない。住民の無関心さが真の異常なのだ。

もちろん関心領域の環境は異質だ。そこに議論の余地はない。しかしながら人間はどんなに異質な環境でも、住んでいるうちに慣れる。(=知らないうちに住環境において意識すること/しないことの選択が発生する)どんなに普通な人間でも、異質な環境に “長く” 当たればそのうちバケモノになってしまうのだ。チープなクリシェになってしまうが、所謂「本当に怖いのは人間かもしれない」というやつである。

しかしながら、これは何ら彼らのイノセンスを示すものではない。当然慣れる前には、バケモノになる前にはこの環境に対する拒否感があったはずで、(例え職務だったとしても)バケモノになる道を選んでしまった時点で罪である。結果その罰(の一つ)として、制服を身に纏い、帽子を被ったバケモノとして、主人公は自らの行いに対する罪悪感を認識する事になるのだ。


犬は常に吠えていた。赤子は常に泣いていた。娘は夜に眠れなかった。彼女らの共通点は何か?それはこの三者どれもが無知で純粋である事実である。母と同じく、彼女らもこの地のおかしさを感じているのだ。(この地で幼少期を送る子供たちは将来どうなってしまうのだろうか...)

これに対し、息子たちにはそのような様子はなかった。一番幼い息子でさえ、特に周囲の環境に恐怖する様子はなかった。あくまで私の考察だが、彼らは幼い頃から戦争という概念を拒否感なしに食べて、消化して、吸収して育ってきている。性差別に傾倒する気は毛頭ないが、やはり戦争は男性が映し出す像である。この戦争が男性のシンボルの一つとされていた事実は(少なくとも戦時中には)広く認識されていただろうし、後に挙げる大江健三郎「飼育」にも静かに示されている。


本作の印象的なシーンの一つとして、灰を植物にやる場面が挙げられる。


この灰は十中八九、ユダヤ人の遺骨だろう。視覚的に最も関心領域の異常性を感じたのはこのシーンであった。このシーンは映画後半であり、作中ではそれまで庭とその美しさが繰り返し画になっていた。正直、庭単体で見れば凄く綺麗だとすら思っていた。もうこのシーンを見てしまうと、二度と同じ目で庭を見る事はできない。

当たり前だ。逆にそれまで本作を見ていて、そこに至らなかった私の方がおかしい。普通に掻き出していると分かりやすく焼却効率が下がってしまうレベルで炉から灰が排出されるのだから、当然その生産物を使わない手はない。彼らにとっては普通の仕事効率化。普通の植物用肥料。そこに特段の意識がいく事はない。しかしながら私にはそのカリウムとリンから滴る血の音、銃声、そして叫び声が聴こえてくる。


終盤、主人公はパーティと毒ガス室について妻と会話を交わした後、白地に黒の正方形が囲むように配置された床を見て、吐く。

これが本作のラストシーンだ。

ナチは数え切れないほどの “正方形” を持つ
ナチは数え切れないほどの “正方形” を持つ

明らかに、この正方形は収容所と関心領域のメタファーである。

あの「音」が聞こえてこない環境で過ごした結果、主人公は関心領域の異常性に気がついたのだ。

ヘートヴィヒの母を見れば分かるように、普通の人間は関心領域の環境に急に行っても「音」が日常的に「聴こえてくる」事に異常性を感じるし、パーティ会場でガス室の妄想をする事もない。

彼はそれに気がつき、「中」、そして自分たちが今まで行ってきた「業務」「習慣」について罪悪感を抱くのだ。

「罪悪感」などという言葉では説明できないソレである。

主人公がそれを意識する前から、本作の観客は当然不愉快さを感じていただろう。私も感じていた。

それは音を通して伝わる恐怖、狂気、そしてその存在をこの世に許してしまった事に対しての(人としての)罪悪だ。

上にも示したが、私が最もこれらを感じた瞬間の一つは灰、おそらく人間を焼却した灰を植物に肥料として与えるシーンである。

現代の博物館として収容所が展示されている様子を通して、それがより生々しく感じられた。


話は変わるが、私はこの映画を観て、大江健三郎の短編小説「飼育」を思い出した。

別にストーリー上の繋がりがある訳ではないが、単純に想起させられたのでここに感じた事を書く。

(かなり簡略化するが)私が記憶する限り、「飼育」は内容として

起:時は戦時下。主人公(僕)は辺境の村におり、戦争が身近には感じられない環境で過ごしている。

承:彼とその家族は墜落した軍用機から1人脱出した黒人兵を(捕虜として送り出すまで)飼う事になる。黒人兵は村の子供たちと共に平穏な時を過ごし、仮初の共同体を築く。

転:しかしながら県に移送する直前、黒人兵は主人公を人質に籠城。

結:最終的には父が黒人兵の頭を鉈で砕き殺すが、同時に主人公の左手も割られる事になる。その後自室で主人公は「目覚める」。僕→黒人兵という幻想の飼育、そしてそれが招いた様々な物事という「洪水」「聖書的な『終末』」を通して彼は変わってしまったのである。彼は最早戦争、そして国家を意識せざるを得なくなった。また彼は村の大人に、村の大人は町・県に、町・県は国家に飼われているという事に気がついたのである。これらは彼にとって不可逆な変化、すなわち子供の世界からの排斥である。

といった展開がされている。(違ったらごめんなさい)

考えてみると、(状況こそ違えど)本作と「飼育」にはいくつもの共通点、そして真反対なコネクションが見てとれる。

特に分かりやすいものとしては、「飼育」には(アメリカ→)国家→県・町→村・村の大人→子供(僕)→黒人という飼育の関係性が見られ(先述した通り、僕→黒人の飼育は実際のものではなかったが...)、「関心領域」には国家→関心領域に住むナチ→収容所内の人々という関係性が描かれている点が挙げられるだろう。

また、「飼育」は戦争に無関心な社会=子供たちに戦争の現実が持ち込まれ、意識せざるを得なくなる話であるのに対し、「関心領域」は戦争/収容/殺戮の概念が溢れ出す場所に住み続け、それらを意識しなくなってしまった人々の話である。

加えて「飼育」に女性が出てこないこと、「関心領域」において戦争を取り巻く人間が全員男性である事から分かる通り、どちらの作品も戦争を男性の象徴として、少なくとも女性の一部ではないものとして描いている。

「関心領域」において主人公は単身赴任=「『音』の欠如」を、「飼育」において主人公は黒人と僕(そして黒人と子供たち)が創り出したと妄信していたユートピアの崩壊=「白昼夢からの目覚め」を経験する。

そしてこの出来事はどちらの主人公たちにとっても赤いピルであり、知らなかった/忘れていた事を意識するようになり、それまでいたはずの世界・社会からぽんと放り出される事になるのだ。


Comments


抽象的な流体アート
Nebula

本​ブログの筆者です。

続きを読む

本ブログはwix.comを使って作成しました。

​お問い合わせ等はプロフィール内のメールアドレスへお願い致します。

bottom of page