The Substance (2024)を観て@GCS池袋
- Nebula
- May 17
- 8 min read
”The one and only thing not to forget: You. Are. One.”
はじめに
遂に映画館で観てきました。
前観た時の記事(2025年2月13日にNoteに投稿)と合体させて一緒に書き直す事にしました。
映画の感想は今まで書いた事がないのですが、テーマもビジュアルも本当に衝撃的な作品です。
今の所、評価は以下のようになっています。(2025/05/17時点、Googleより)
IMDb: 7.2/10
Filmarks: 4.1/5
Rotten Tomatoes: 89%
ホラー、その中でも特に人を選びそうなボディホラー系の中ではかなり高い方なのではないでしょうか?


あらすじ
ネタバレ注意です。
序盤〜中盤の流れのみ書いています。
50歳の誕生日を迎えた元人気女優のエリザベスは、容姿の衰えによって仕事が減っていくことを気に病み、若さと美しさと完璧な自分が得られるという、「サブスタンス」という違法薬品に手を出すことに。薬品を注射するやいなやエリザベスの背が破け、「スー」という若い自分が現れる。若さと美貌に加え、これまでのエリザベスの経験を持つスーは、いわばエリザベスの上位互換とも言える存在で、たちまちスターダムを駆け上がっていく。エリザベスとスーには、「1週間ごとに入れ替わらなければならない」という絶対的なルールがあったが、スーが次第にルールを破りはじめ……。

表現について
本作は言葉で語る、というよりは画で語るタイプの作品だと思います。
今年の1月に初めて本作を観た時には、元々知っていた映画との違いに衝撃を受けました。
登場人物の心の声がナレーション風に流れる...という事こそ全くありませんが、どのシーンでも主観的な視点で世界が描かれており、彼女の感情や思いが具象化されている感じがします。(後述)
また、「繰り返し」が本作の大事な要素の一つになっている気がしました。
Hollywood Walk of Fameはもちろんのこと、Refill Kitの回収もストーリーの進行とともに、繰り返されるながらも少しずつ変わっていきます。
エリザベスがパニックになりながら走った後のシーンで、今度はスーがパニックになりながらドレスを着たまま家に戻りますよね。
これもシンプルな表現ながら、観ていてとても楽しめました。
音のデザインも非常に特徴的でした。
この曲がずっと頭に残っています。
食事シーンの不快さ
冒頭のエビを食べる場面に始まり、副作用を抱えたエリザベスが料理をするシーンなど、本作品に出てくる食事シーンはどれも気持ち悪く不快です。
より広いテーマで捉えた解釈は後述しますが、エリザベス自身もフレンチ料理のレシピを見て吐く真似をしています。
この「食事への嫌悪感」はエリザベス・スーの主観的な思いなのでしょう。
食物はどれも脂肪と糖を含んでおり、それを食べることは(人間である以上必須であるにも関わらず)彼女の体を完璧から遠ざけてしまいます。
その観点において恐らく「食べる」という行為は彼女の美を損なう、嫌悪すべき概念だったのだと思います。
そのメタ的な証拠の一つとして、スーが何かを食べているシーンが全くない事が挙げられます。
唯一彼女が体内に入れたものといえば、冷蔵庫から取り出した炭酸飲料くらいです。


Neo-Expressionism[1]
Neo-expressionism (日本語:新表現主義)は元々絵画について使われる言葉だったのですが、最近は映画の文脈でも使われる事が増えてきました。
本作は現実世界を舞台にしたストーリーですが、内容的にはなんだか世界の歪み方というか、社会構造に内在する歪んだ力学がより強まっている感じがしますよね。
これこそが本作が新表現主義的、と言われる所以の一つです。
先ほど挙げた、感情という見えないものが本作では可視化されている、というのもこれを強めています。
各シーンでの色遣いの激しさも新表現主義的なものになっているようです。
主人公の内面世界に、影として映し出されている現実を私たちは本作で観ているのです。
現代における不安や鬱といった感情は、単純にリアルの世界をレンズに映すだけでは描写しきれないほど深い傷なのかもしれません。
ストーリーについて
本作は単なるショッキングなホラー映画にとどまらず、女性の内面に潜む葛藤や社会が押し付ける過酷な美の規範をあぶり出す作品になっています。
象徴的なシーンの一つは、サブスタンスの箱を開けた時に表示される警告、 “You are one” というメッセージです。
一見すると、「二つの身体はいずれも自分のものであり、いずれにも注意を払うべき...」というような表層的な意味も受け取れます。
しかしながら、物語の終盤でこのメッセージがより根本的な意味を持っていたことが明かされました。
つまり、二つの身体は単に依存し合う存在ではなく、本質的に同一の存在として不可分なのです。

物語の序盤〜中盤では、物理的には別個に存在する身体が相互依存関係にある...といった構図が提示されていました。
しかしやがてこの依存関係は心理的な分裂を招き、登場人物の心を蝕んでいくことになります。
ただし、その「分裂」が引き起こす問題の責任を負うのは結局のところ一つの主体=エリザベスの心と身体であり、そしてスーの身体そのものです。
つまり警告が示す通り、サブスタンス服用による身体変化は、元々は一つの身体と一つの心で構成されていた存在が、形式的に「二つの身体、一つの心」という形へと再構成されたに過ぎません。
エリザベスとスーは、決して分離された二つの実体などではないのです。
中盤、スー側でのルール違反を契機にエリザベス=スーという一つの心の中に亀裂が出来始めます。
その結果、外見上は人格の分裂のような現象が現れました。(最終的には両者が、二つの粘土の球が再び融合し、文字通り一体化することになりました)
この一体化は、服用を開始した時点で既に不可避であったように見えます。
エリザベスは既に自らが手に入れられないと知りつつも、若さと美に対する渇望を抱えていました。
恐らくこれは元々持っていた思いなのでしょうが、番組降板を機に私たちにもはっきりと見える形で表現されていくことになります。
そしてその欲望の具現化として現れたのがスーです。
この状況、明らかに「歪んで」います。
というのも一つの心に対して二つの身体が存在し、そのうち一方だけが“完全”であるという誰が聞いても明らかな不均衡を抱えているのです。
そしてサブスタンスが求めている完全な一週間での身体交代は、このアンバランスさの対極に位置するルールです。
この矛盾ゆえ、(劇中でも描かれる通り)服用者が元の身体で過ごす一週間は異様に長く感じられることになります。

食事の話についてもまた少し触れようと思います。
劇中でエリザベスがプロデューサーから贈られたのはフランス料理のレシピ本です。(エリザベスが吐く真似をしていました)
フランス料理は脂肪分の多いメニューが多く含まれており、作中でこれは「もう見た目を気にする必要はない」「君はもはや象徴ではなくなった」というシンボルになっています。
これは業界内における暗黙の最後通告で、エリザベスが属するメディア業界(特に女性の若さと美が冷徹に評価される領域)における残酷なルッキズムのメタファーです。

このような環境下で、エリザベスの心は徐々に侵されていくことになります。
外見に対する慢性的な不安は拭い去ることのできない呪縛となり、サブスタンスの使用をやめるという選択肢が常に存在していたにもかかわらず、彼女はそれを選び取ることができませんでした。
本作は現代女性が抱える根源的な矛盾、すなわち不可逆的に失われていく若さと美に対する(本人そして外部の)執着、そしてその追求がもたらす自己否定を余すところなく描き出しています。

最終的に誕生する“Monstro Elisasue”とは、これら相反する側面の融合体であり、美しさと醜さ、若さと老いが一つの身体と心において可視化された存在になっています。
“Monstro Elisasue”となった彼女は、初めて真に「あるがままの自分」を受け入れることができました。(これは各シーンで分かりやすく描かれていますね。)
しかしその姿は、社会においては「怪物」として排除される存在だったのです。
おわりに
君はもう必要ない、というメッセージは共同体に生きる私たちに対して「存在の抹消」という本能的な恐怖を呼び起こします。
劇中で描かれるように、それは社会が一方的に押し付ける理想像から逸脱した瞬間に発生するものであり、外部の基準によって私たちの内的精神は常に傷つけられているのです。
このような抑圧のなかで、真に外部に依らない価値観を持ち、自らを肯定できるようになること。
それこそが歪んだ現代社会を生きる私たちにとっての切実な課題なのかもしれません。
最後までお読み頂きありがとうございました!

参考
[1] Thomas Flight. (2024, December 20). Why does the substance look like that? [Video]. YouTube. https://www.youtube.com/watch?v=IvZGrF1hSbY .
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