Velvet Buzzsaw (2019)を観て
- Nebula
- Apr 13
- 5 min read
Updated: Apr 29
“What's the point of art if nobody sees it?”
はじめに
少し前に観た映画、Velvet Buzzsaw (2019) についての記事です。
この記事は2025年3月20日にNoteに投稿した内容を一部改変したものになります。
あらすじ
ネタバレ注意です。
序盤〜中盤の流れのみ書いています。
ロサンゼルスの画廊で働くジョセフィーナは、同じアパートの住人である老人ディーズが死亡しているのを発見する。ディーズの部屋には、彼が生前に描いた大量の絵画が残されていた。不気味な魅力を持つその絵画が類まれな傑作であることに気付いたジョセフィーナは、勤務先の画商ロドラとともに高値で売ろうとする。一方、美術評論家のモーフは謎の多いディーズに興味を抱き、調査を開始する。やがて、彼らの周囲で不可解な事件が次々と起こり……。
感想
皆さんはこの絵をご存じだろうか。

これはバンクシーが描いているシリーズのうちの一つ、Girl With Balloon (2006) という名前の絵画である。2018年、サザビーズでの落札直後に本作は額縁に内蔵されていたシュレッダーにかけられ大きな話題となった。

シュレッダー裁断がまた価値ある芸術行為とみなされ、本作はLove Is In The Binという名前に変更、制作年も2018年になった。その後、本作は2021年に再びサザビーズのオークションに出品された。この出品では、本作は約29億円で落札された。3年で実に20倍近くの価格になったのである。バンクシーは本作の題名をGirl Without Balloon、制作年を2021年としている。
シュレッダーは本来、完全に絵画を裁断し切る事が意図されていたようで、オークション後に仕掛けを作動させる事で現代のアート・マーケットを批判するのが目的であった...とするのが通説である。マーケット批判、すなわち商品化に対する批判は、より広い括りに言い換えれば資本主義の批判とも捉えられるだろう。しかしながら、皮肉にもこの批判行為は価格の大幅上昇、すなわち芸術市場という大火に超弩級のガソリンを注ぎ込む結果となってしまったのである。
話を戻そう。
本映画では現代アートを軸に、芸術の過度な商品化の片棒を担ぐ人々について描かれている。彼らは美しさを基準に最早芸術を見ることは出来ない。誰も買わず、人々が見ない芸術には価値を見いだせなくなってしまった。加えてこのような人々はアートを媒体とし、あらゆる手を使って金を稼ごうとしている。そしてこれはディーズの遺作発見以降、特に色濃く登場人物全員の行動に現れる事になる。
見返り目当てに付加価値を加える者、色仕掛けで”勝ち確”な芸術作品への投資を行う者を初めとし、芸術家でない登場人物はほぼ全員が何らかの行為を行なっている。明らかに、この時点で芸術作品は製作者の手を離れている。現代社会において、芸術作品の価値は他の業界の人間により決められ、勝手に釣り上げられる事が運命付けられているのだ。本作では、(車の事故のシーンからも分かる通り)業界人らは自らの強欲さに導かれて死への道を辿ることになる。
本作は「過度な価値の付加を以った現代芸術の商品化」以外にもアート業界の歪みについて描いている。主人公は映画後半、1人でインスタレーション作品の内部にいる時に幻聴を聞く。それらはどれも主人公、そして他の批評家たちが芸術作品に対し浴びせ続けた罵倒の言葉の数々であった。この大声に彼は付き纏われ、パニック状態になる。この声は本当に大きく、重い。芸術家をパニックに陥れ、彼らの人生を左右してしまうくらいに。
最終的には、本作はハッピーエンドで終わる。ディーズの芸術作品は(廃棄という彼の望みこそ叶わなかったが)業界による過激な商品化という最も望ましくない、意味のないプロセスから逃れる事ができた。そしてその一部は作品の美しさそのものを価値(・価格)としてホームレスの男に売られる事になる。単純に作品の美しさが認められる、というラストはもしかしたら廃棄と同等、またはそれ以上に良い終わりなのではないだろうか。少なくとも何も分からない富豪が、高いからという理由だけで数億円で買うよりは良いだろう。
“What's the point of art if nobody sees it?”
この一言は、発言者が完全に芸術の商業化に呑まれ、アートが何であったかすら忘れてしまった事を端的に示しているだろう。文字通り受け取ると「誰も見ないアートに何の意味があるの?」という事になる。現実的に考えて「誰も」見ないアートというものは存在しないだろう。話の筋を汲んで考えるに、これは「需給曲線に載らないアートに何の意味があるの?」という事なのだと思う。これは資本主義社会において売買されている商品について投げる言葉だ。
エンドロールにも見える通り、芸術作品は別に需要が無くても、自分しか見なくても、批評家が喜ぶような深い意味が無くても、純粋な美しさをその内に持っている。こう書くとあまりにも当然の事を言っている様に見えるが、これこそが登場人物たちが過去、遠い過去に置いてきてしまったモノである。
本作では今まで示してきたようなアート業界の問題の数々に対し、超常現象を解決策/プロットマシンとして使っており、それを通して主人公達が罪と向き合っている。(罰せられている)
私はこの業界の人間でも何でもない。しかしながら、そんな私でも現実的にはこれらの歪みを是正することが非常に難しい事くらいは分かる。恐らく、一生改善しない。資本主義は強欲という人間の根源的な欲求=罪の性質を強める。一度資本主義の歯車となってしまった芸術業界は、これからも至って真面目にこのような滑稽な営みを繰り返していくのだろう。
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